大判例

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鹿児島地方裁判所 平成9年(行ウ)12号 判決

原告

右訴訟代理人弁護士

高橋政雄

増田秀雄

被告

地方公務員災害補償基金鹿児島県支部長 Y

右訴訟代理人弁護士

蓑毛長史

和田久

主文

一  被告が原告に対してした平成五年六月二八日付け公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は、被告の負担とする。

事実及び理由

第三 当裁判所の判断

一  認定事実

〔証拠省略〕

1  Xの勤務状況

(一) Xの職務

Xは、内之浦町職員であったが、昭和五九年五月一日以降教育委員会に出向し、昭和六一年四月一日から本件災害時まで総務課主査の地位にあった。本件災害当時の教育委員会は、A教育長の下、幼稚園、学校給食共同調理場、社会教育課、指導事務嘱託、総務課が置かれ、総務課は、総務課長のB、主査のX、管理係のC(以下「C」という。)の三人であり、Xは、実際上、総務課長に次いで、教育委員会の総務事務及び学校教育事務を広く担当する地位にあった。

Xが事務分掌上、主として担当すべき職務内容は、①教育に関する調査及び統計に関すること、②教材の取扱に関すること、③国庫補助金に関すること、④教科書の採択に関すること、⑤学校の職員並びに児童・生徒の保健衛生、安全、福利厚生に関すること、⑥教育施設、設備の整備に関することであったが、具体的には、執務室における報告書作成等のデスクワーク、備品の取扱事務等であり、ヒヤリング、調査及び説明会等による近隣都市や学校現場等へ公用車を運転するなどしての出張も多く、平成二年一月から本件災害前日までの期間をとっても、鹿児島市、鹿屋市などに計一四回の出張があった。さらに、教育委員会の主催ないし共催するレクリエーション的な行事について、その運営に関する補助的役割をすることも多く、Xは、平成元年度だけでも町民親睦ソフトボール大会、町民親睦バレーボール大会など一一のレクリエーション行事に参加している。

Xの勤務時間は、午前八時三〇分から午後五時までであり(隔週土曜日は午後〇時三〇分まで)、休憩、休息時間は午後〇時から一時までであった。

(二) Xの勤務状況

(1) Xは、前記第二、二3記載のとおり、昭和五九年九月一日に職場復帰しているが、主治医のD医師から「重労働や過労には耐えられない」と指導を受けたこともあり、重い荷物を持ったり、力仕事は極力避けるようにしていた。本件災害の約一か月前である平成二年三月二七日から四月一八日にかけて計三回、休校となる大浦小学校の備品整理が行われたが、その際も、Xは、重い荷物の積み下ろしや、運搬など肉体作業には従事せず、専ら、軽い荷物の持ち運びや備品の確認作業などを行っていたものと認められる。

なお、当時の社会教育課課長Eの聴取書(〔証拠省略〕)は、右認定に反する記載内容となっているが、右Eは平成二年四月に内之浦職員に赴任したばかりであったから、(〔証拠省略〕)の記載をそのままに措信することはできない。しかし、同聴取書の記載内容からも、Xが非常に責任感の強い性格であったことが窺える。

Xの健康状態が通常の勤務に影響することはなく、おおむね定時近くに登庁・退庁し、繁忙なときには、休日出勤をしたり、自宅に仕事を持ち帰ったりして処理しており、職場復帰した昭和五九年九月から本件災害までの約五年八か月の間、Xの勤務状況は良好であった。また、平成二年一月から本件災害までの約五か月間、Xは年次休暇を計六日間とっているが(計九回、そのうち六回は半日休暇)、いずれも「家事の都合」による「自宅」休暇であり、病欠等は存しなかった。また、周囲の評価も総じて良く、当時の上司であるA教育長は、Xを几帳面でかつ責任感の強い人物と評価しており、また、当時の教育委員会の上司、同僚もXの健康状態が勤務の障害になっていると認識している者はなく、むしろ、周囲の者からはXの健康状態は通常の勤務に何ら差し支えない程度に回復していると認識されていた。

(2) 前記(一)で認定したとおり、教育委員会ではスポーツ等のレクリエーション的行事を主催ないし共催することが多く、Xも昭和五七年以前はソフトボールやバレーボール等のスポーツ大会に参加していたが、昭和五九年九月に職場復帰して以後は、レクリエーションとしてのスポーツ大会に選手として参加することはなくなり、専ら、運営事務を行ったり、審判や応援等をしていた。ただ、Xは、平成元年一一月の教育事務所との交歓ソフトボール大会に同人の希望で代打出場し、ホームランを打って走塁し、その後、ファーストの守備についたことがあった。Xがこのようにスポーツ大会に選手として参加したのは職場復帰後初めてのことであり、それ以後は、本件バレーボール大会まで選手としてスポーツ大会に参加したことはなかった。

(3) Xの本件災害前一週間の勤務状況は別表1の、同一か月の勤務状況は別表2の、同六か月の勤務状況は別表3のとおりである。

平成二年五月七日(月)は、午前八時二二分に登庁し、丸一日、パソコン所管替え事務に従事し、午後六時六分に退庁した。五月八日(火)も、前日同様パソコン所管替え事務に従事し、定時に登庁し、午後六時一二分に退庁した。五月九日(水)は、大浦小・中学校での定期監査のため、午前中、山間の溢路を、公用車を運転して同校に向かい、午前一〇時三〇分から監査を受けた。午後に帰庁したが、すぐに学校調査票ヒヤリングのため、公用使用の私用車を運転し、鹿屋市に出張し、午後七時頃に帰宅した。五月一〇日(木)は、定時に登庁し、丸一日、学校教育設備費等補助金関係書類作成事務に従事し、午後五時二四分に退庁した。五月一一日(金)は、定時に登庁し、学校教育設備費等補助金ヒヤリングのための書類を作成し、午前一一時頃、鹿児島県庁に公用使用の私用車を運転し、鹿児島県庁に出張し、午後四時頃、県庁を出発し、午後八時頃に帰宅した。

毎年四月から五月にかけての時期は、教育委員会にとって最も事務量の繁忙な時期であり、Xは仕事を自宅に持ち帰って処理するなどしていたことが窺われ、これに加え、平成二年三月末以降の大浦小学校の休校に伴う備品整理業務や、本件災害日前日の鹿児島県庁への出張業務がXの心機能に負荷を及ぼしていたものと考えられる。

2  Xの日常生活について

Xは、昭和五七年六月に心筋梗塞を発症するまでは、職場や地域のソフトボール、バレーボール等の各種スポーツ大会に積極的に参加し、うさぎ狩り等の狩猟を趣味としていた。

しかしながら、心筋梗塞発症後、特に、昭和五九年二月に再度の心筋梗塞により南九州病院に入院し、昭和五九年九月に職場復帰して以後は、D医師など診察医の指導の下、公務についてはもちろん、日常生活においても、心臓機能の低下や冠動脈閉塞・狭窄の進行を自覚し、重労働や激しいスポーツを避けるとともに、食生活においても薄味を心がけ、肉類の摂取を極力抑えるなど注意を払うようになった。たばこもやめ、それまでほとんど毎日飲んでいた酒も控えるようになり、晩酌も焼酎一お湯九の割合で薄めたものを一杯程度飲むくらいであり、仕事上の宴席等でも飲酒は極力控えるようになった。

Xは、昭和六二年三月に妻を亡くしており、それ以降本件災害時まで、原告である本件災害当時高校三年生の長男及び中学二年生の長女と三人暮らしであり、長女と分担して家事を行っていた。Xの日常生活は、午前五時頃に起床し(ただし、平成二年四月以降は長男である原告の登校時間が遅くなった関係で午前六時頃となった。)、朝食の準備をして長男を送り出し、引き続き午前七時頃に長女に朝食をとらせて学校に送り出し、自らは午前八時過ぎ頃に出勤し、午後五時半頃に帰宅し、午後九時か午後一〇時頃には就寝する毎日であった。また、Xは、朝の散歩や庭の手入れ等、軽い運動はするように心掛けていた。

また、Xは、本件災害当時、町立病院に勤務する看護婦と婚約中で、本件災害の翌日に、仲人を依頼していた直属の上司のBの立会のもと、結納の儀をすることになっていた。Xは、本件災害の前日に、鹿児島市に出張しているが、この際、結納品を鹿児島市内の店で買い揃えていた。

3  Xの基礎疾患(心疾患)の状況

Xの基礎疾患(心疾患)の状況及び昭和五七年六月以降の治療の経緯に関する事実は、前記第二、二3のとおりであるほか、Xの基礎疾患に関し、以下の事実を認めることができる。

(一) 心筋梗塞について

心筋梗塞とは、心筋における冠動脈の閉塞によって冠動脈から先の血流が遮断され、心筋が壊死し、心筋細胞が破壊される状態をいう。心筋梗塞は、重篤な疾患であるが、閉塞部位によって重篤度が異なる。左冠動脈主幹部にみられる閉塞は、心筋傷害の広がりが、枝分かれした前下行枝や左回旋枝の閉塞による心筋傷害の広がりよりも広く、重篤とされる。心筋梗塞が起こると、梗塞による心筋細胞の壊死が心筋収縮能の低下をきたし、心拍出量の低下、左室の拡張終期圧の上昇をきたす。左房から左室への血液流入が障害されると、肺欝血・低酸素血症をきたし、さらに、心筋収縮能を低下させる。また、拡張終期圧の上昇は、心筋虚血をさらに助長し、心身収縮能をさらに低下させる。心筋梗塞により、心筋収縮能、心拍出量が低下し、心筋の細胞壊死がすすむと、不正脈や心源性ショック等の合併症を起こし、死に至る。

(二) 冠状動脈バイパス術を受けた後の生存率

昭和五〇年から平成五年までの間、小倉記念病院において施行された冠状動脈バイパス術のうち、死亡例を除く一六二八例について行った遠隔成績(〔証拠省略〕)によれば、バイパス術全症例術後五年、一〇年、一五年の生存率は、非心臓死を除くとそれぞれ、九六・五%、八九・四%、八二・一%であり、心事故非発生率は、八三%、五九・四%、三二・四%であった。ただ、右症例のうち九〇二例が術前因子として陳旧性心筋梗塞がみられ、陳旧性心筋梗塞のない群に比べ、生存率は有意に低かった(P<〇・〇〇一)。また、昭和四五年から平成六年までの間、東京女子医科大学病院において施行された冠状動脈バイパス術の遠隔成績によっても、バイパス術時三枝病変を有していた患者の五年生存率が八七・四%、一〇年生存率が七三・七%であり、左室駆出率が四〇%以下の患者の五年生存率が八六・三%、一〇年生存率が六六・〇%であった(ただし、いずれも非心臓死を除いた数値)。

右数値によれば、統計上、冠動脈バイパス術後の死亡率ないし心事故発生率は、三枝病変であっても必ずしも高くないことが認められる。

(三) 南九州病院退院後のXの心機能の推移について

(1) 南九州病院退院後のXの通院状況等

(ア) Xは、昭和五九年六月一日に南九州病院を退院して以後、昭和六二年六月八日までの間、昭和五九年は七月から一一月まで毎月一回、昭和六〇年は計六回、昭和六一年は計四回、昭和六二年は二回の合計一七回、大学病院において主としてD医師の診察を受けた。また、同時に、町立病院にも、平成元年六月頃までは毎月三回程度、それ以降は毎月一、二回程度通院し、本件災害時まで、狭心症や心不全の予防薬の投薬治療を受けていたが、両病院ともに、Xに対し、勤務をやめて治療に専念するようにという指導を行った形跡はみられず、また、昭和六二年六月八日に行われたマスターダブル運動負荷テストの結果でも、陰性で、肺鬱血所見(心不全)もなく、日常生活や事務労働や車の運転など中くらいの労働までは許容できるとD医師に判定されている。ただ、D医師は、Xに対し、受診をする必要がないとの指示はしておらず、Xの都合(妻の死亡など)により受診しなくなったものと推察される。

Xは、大学病院で受診しなくなってからは、町立病院で診断及び投薬治療を受けたが、右診療録には、狭心症予防薬、血栓予防薬等の投与を継続的に受けてはいたものの、狭心症、心不全等の症状を起こした旨の記載は存しない。また、平成元年六月二〇日はニューヨーク心臓協会(NYHA)での病態分類は、最も軽いⅠ度とされていた。町立病院では、Xの心機能を懸念し、再度のカテーテル検査の受診や大学病院での受診、あるいは、再度のバイパス術を勧めた記載は存しない。

(イ) なお、平成元年六月二六日からその翌日にかけて、フラフラ感が二日ほど続いた旨の記載があるが、その際に処方された薬は、レキソタン(鎮痛剤)、セファドール(能循環改善剤)であって、いわゆる、「めまい」の薬であり、その投与によって右症状はまもなく消失したものと認められ、心機能の悪化を示唆するものとは認められない。

また、昭和五九年二月から六月にかけて南九州病院での入院治療中には多源性心室性期外収縮(危険な不整脈)がみられた旨の記載が存するが、同病院の医師Gが、町立病院の担当医師に対し、Xの治療経過等について説明した紹介状には、退院処方として「キニジン(一〇〇)四丁」(抗不整脈剤)との記載があり、「PVC(心室性期外収縮)はこれにて消失しました」との説明書もあり、Xの不整脈は南九州病院退院時には消失していた。その後、Xに多源性心室性期外収縮が発症していたか否かについては、大学病院や町立病院の診療録にはこれを発症したことを窮わせる記載は存しない。この点について、H医師(以下「H医師」という。)は、多源性心室性期外収縮には自覚症状がない場合があり、カルテには記載がないだけで発症していた可能性も高いとするが、昭和六一年八月二〇日、中央病院での検査では、PCWM五(正常)と診断されており、昭和六二年六月八日、大学病院での胸部X線検査では肺鬱血所見は認められず、心不全はないと診断され、また、同日の心電図検査では、「正常洞調律、心拍数六六/分、Ⅱ、Ⅲ、Ⅴでqrパターンで下壁梗塞を示す。」と診断されている。また、前記のとおり、マスターダブル運動負荷テストでは、狭心症状、ST偏位は認められず、証拠上、多源性心室性期外収縮が南九州病院退院後に発症していたと認定することはできない。

かえって、前記のとおり、町立病院では、平成元年六月二〇日、NYHAⅠ度と診断されていた。

さらに、南九州病院での検査では、Xに高脂血症が認められたことが指摘されているが、その後、本件災害に至るまで、町立病院あるいは大学病院でこの点を問題視されるような血液検査結果は存せず、また、前記のとおり、Xは食生活等に注意した日常生活を送っており、高脂血症からは脱していた可能性が高い。また、H医師は、昭和五九年の心筋梗塞の原因の一つとして高脂血症をあげるものの、本件災害との関係では、高脂血症の影響はほとんどない旨供述しており、Xの昭和五九年当時の高脂血症は本件災害との関係では無視してよい素因と考えられる。

右のとおり、昭和五九年九月の職場復帰以降、Xの心疾患の状態は、本件災害に至るまで、X自身、自制的生活を送るよう心がけていたこともあり、安定的に推移していたことが認められ、急激に悪化するような徴候は全くみられなかった。

(2) H医師の所見

H医師は、昭和五七年六月から平成八年四月まで南九州病院の循環器医長をつとめており、Xの心疾患の推移について、次のとおりの見解を有している。

昭和五九年六月の南九州病院退院前のXの症状は、総合的には、急性期を通り越した陳旧性心筋梗塞であり、三枝病変で駆出率も悪く(三五%、通常値は五〇%以上である。)、また、多源性心室性期外収縮(心室性期外収縮の出る場所が一か所ではなく、複数か所から出るもの。危険な不整脈であり、ローンⅢに分類される)もみられたところ、昭和六一年八月の中央病院での検査結果をみる限り、駆出率は一〇%低下し、左室造影の結果、五番及び七番が無収縮状態となり、特に改善された部分もなく、心機能状態としては客観的に悪化していたとする。

昭和五九年五月二三日の冠動脈造影では、右冠動脈二番で完全閉塞していたが、一番から三番にかけて側副血行(主要血管に閉塞が起こると、これを代替するために形成される血流路)が認められた。

そして、平成元年六月二〇日の町立病院での診断の結果については、Q波は、南九州病院退院時と変わらないが、V5、V6のSTが低下しており、また、左室肥大が認められ、心電図上は少し悪化しているとする。また、右診断の結果、Xの状態は、ニューヨーク心臓協会(NYHA)での病態分類は、最も軽いⅠ度とされているが、これは、本人の自覚症状がないということによるものであって、客観的には、心機能は南九州病院退院時よりも悪化しているとする。

そして、同医師は、本件災害日前日の鹿児島出張は、負荷にはなったかもしれないが、発症の直接誘因になったとは考え難いとする一方、本件バレーボール試合で前衛レフトしてプレーに参加したことは、発症の直接誘因になったことは充分考えられるとの意見を述べている。

(3) D医師の所見

D医師は、昭和五八年四月一日から大学病院内科の医師として勤務しており、Xの主治医であったが、Xの心疾患についての所見は次のとおりである。

昭和五九年六月の南九州病院退院前のXの症状は、三枝病変(ただし、バイパス手術により一枝開存しているので、二枝病変相当)の陳旧性心筋梗塞であり、三五%という駆出率は、予後の良否を判定するについて境界ラインであったとし、心機能の予備力も低下している状態であったとする。昭和六一年八月の中央病院での検査結果によれば、駆出率が一〇%低下しており、左前下行枝の三番及び六番が栄養する領域で心臓の壁の動きが悪化していることによれば、再構築(心機能が悪化した部分の心筋が動かないので、その動かない部分の働きを動く部分の心筋が代償的に作用し血液を全身に送り出すが、代償する心筋の動きも長続きせず、心筋が伸びてボリュームを大きくし、心筋収縮力が弱まる状態)が起きていた可能性が高いとする。

昭和五九年二月一日、下壁梗塞発症後、右冠動脈で一〇〇%閉塞が新たにみられ、バイパスは、左前下行枝にかけた分のみ開存していた。左回旋枝は前回と同じく近位部で一〇〇%閉塞であったが、側副血行が右冠動脈抹消、左回旋枝の両方に良好に形成されていた。

そして、Xの本件災害前六か月の勤務状況をみると、平成二年三月頃から出張が多くなっていることや、パソコン処理など通常でない業務への従事などストレス蓄積の傾向が認められ、勤務と突然死の関与を全く否定することはできないとする。

また、Xの冠動脈疾患の状況から考えると、本件バレーボール試合への参加は、突然死の直接的な引き金となったと思われ、因果関係は深い、としている。

(四) Xの死因及び死亡に至る機序について

死亡診断書上、Xの死因は、急性心筋梗塞とされているが、バレーボールをしたことによって、急性心筋梗塞を起こしたのか、あるいは、心室細動という不整脈を起こしたのか、両方の可能性が考えられるとすることで、H医師及びD医師の所見は共通している。急性心筋梗塞が発生する機序として、H医師は、運動により血圧が上がったり脈拍が増えたりして心筋性酸素消費量が増すにもかかわらず、Xのような冠動脈病変を有する場合には酸素供給量が追いつかず、冠動脈痙攣が生じたり、血栓ができたりするなどして、心筋梗塞に至る可能性があるとし、D医師は、Xのように心臓の血流が悪い場合には、運動によって酸素需要量が増すにもかかわらず、心臓から出ていく血液量は減少し、心筋虚血となり、それを補うべく交感神経が緊張し、それによって心臓を刺激したり、血管を収縮させる物質(ノルエピネフリン)が血中に放出され、その結果、血栓が生じ、心筋梗塞に至る可能性があるとする。一方、不整脈が発生する機序としては、H医師及びD医師ともに、心筋虚血から、心細胞の電気を伝える能力に差が生じ、心臓の電気の流れの違うところでサイクルが生じ、心室細動という不整脈に至るとする。

また、米田循環器内科のI医師の意見書(〔証拠省略〕)には、「集団でチームを作りお互いに競争的に行う試合などは、過度な緊張を与え、カテコーラミンの分泌を促し、血管を収縮させ、急性心筋梗塞の発症の原因となる。」との記載がある。

(五) 以上の医学的知見によれば、Xの心臓病変は、三枝病変であるが、バイパス手術により一枝(左前下行枝)開存しているので、二枝病変相当であり、昭和六一年八月二一日、中央病院におけるカテーテル検査では、左室造影では収縮率低下があり、駆出率も二五%と低下していたため、突然死の危険性が高いものであった。それにもかかわらず、Xが昭和五九年九月に職場復帰して以降、同人の心臓の状態は全般的に安定していたが、このように安定した状態にあったのは、右冠動脈抹消及び左回旋枝に側副血行が良好に形成されていたためであると考えられる。しかし、本件バレーボール試合への参加により、Xの心臓に過重な負荷がかかり、これが直接的契機となって、心筋梗塞もしくは不整脈を起こし、突然死するに至ったものと認められる。

4  本件バレーボール大会(試合)の状況及び九人制バレーボールの運動量について

(一) 本件バレーボール大会(試合)の状況

(1) 本件バレーボール大会は、前記第二、二2(二)のとおり、内之浦町学校体育連盟が主催し、教育委員会が共催で、転入教職員の歓迎をかねて、教職員・教育委員会事務局職員との親睦を図ることを主たる目的として開催されたものであったが、同時に、毎年の恒例スポーツ行事であり、教育委員会チームは、それまで二年連続優勝しており、平成二年度も優勝を目指して全力を尽くそうという雰囲気であった。

本件バレーボール大会は、いわゆる九人制バレーボールであり、二一ポイント先取(ラリーポイント制)で、二セット先取した方が勝ちであった。本件バレーボール大会の出場チームは六チームであり、三チームごとに二パートに分けて、パートごとに総当り(リーグ)制で予選を三試合行い、各パートの勝者二チームが決勝に進出し、トーナメント制で優勝戦を争う方式であった。本件バレーボール大会の会場であった岸良中学校体育館には二つのバレーボールコートがあったので、予選リーグは、パートごとに分けて各コートで三試合を行い、その後に決勝トーナメントを各コートで二試合(三位決定戦を含む。)行い、都合各コートで計五試合が行われる予定であった。なお、決勝トーナメントの進出については、勝敗が同じ場合には、①セット率、②得点率、③代表者の抽選によることとされた。

(2) 当日は天候も良く、体育館の窓も開けてあったので、風通しも良く、気分不良を訴える者もなかった。教育委員会チームは、予選リーグで内之浦小学校Bチームと内之浦中学校チームと同じパートとなり、午後一時から全体で準備体操をした後、試合が開始された。第一試合は、内之浦小学校Bチームと内之浦中学校チームとの対戦であったが、セットカウント二対〇で、内之浦中学校チームのワンサイドゲームであった。Xは、この試合で審判を努めた。

(3) 第二試合が、教育委員会チームと内之浦中学校チームとの試合であった。教育委員会チームは、前年度の優勝チームであり、一方の内之浦中学校チームも選手層が若く、同試合は、優勝候補どおしの前哨戦とみられていた。教育委員会チームは、控え選手も入れて全部で一二名であったが、かねてスポーツ大会に積極的に参加する男性職員二名(J、K)が出張のため参加していなかった。

第二試合は、第一試合後、小休止を経て開始され、Xが審判を努めた。ラリーの応酬の続く接戦であったが、教育委員会チームが第一セットを先取した。第二セットは、CとL(以下「L」という。)が控えに回り開始されたが、試合中盤の午後二時頃、ブロックに跳んだBが右脚アキレス腱を断列するアクシデントが発生し、Cが自家用車を運転してBを町立病院に運んだ。そのため、交代要員は、Lのみとなったが、Lは高齢(五五歳位)であり、体力的に無理がきかず、本人の申出によって第一セットに出場しただけで女子職員と交代したほどであり、他に交代要員がいなかった。そこで、交代選手としてはXしかいないとする状況となり、Xが自ら申し出る形となり、A教育長も、普段Xがスポーツ大会に選手として出場することが余りなかったことから、「大丈夫か」と声を掛ける程度で出場を認めた。

Xは、前衛レフトのポジションで出場した。教育委員会チームの各ポジションは、教育長のAが前衛センター、M(以下「M」という。)が前衛ライトであり、中衛にはN(以下「N」という。)など若手で固め、後衛には女性職員を配置した。ゲームは、バレー経験の豊富なNやMらが中心となったが、Xも前衛レフトにあって、ブロックなど活発に動き、また、時折、スパイクなども打つなどした。チームの中心であったNもXに対しては、特にカバーに回らなくとも大丈夫との認識を有するほどであった。試合は、第一セットと同様、白熱したもので、ラリーの応酬が続く接戦となったが、内之浦中学校チームが第二セットをとった。Xは、第二セット直後の午後二時五〇分頃、突然、呼吸困難となった。Mは、A教育長の指示により、体育館から岸良中学校の職員室へ向かい、午後二時五四分に救急車を呼んだ。Mは、すぐに、体育館に戻ったところ、A教育長から町立病院に架電して医者に来てもらうよう指示され、再度、職員室に行き、午後三時前頃、町立病院に架電した。

Xが、昭和五九年六月に南九州病院を退院して以後、スポーツ競技に参加したのは、前年のソフトボール大会のみであり、また、バレーボールに参加したのは、退院以来初めてのことであった。Xが参加したのは、前記のとおりの事情で参加せざるを得ない状況に追い込まれたことに加え、X自身、数年来自らの健康状態が回復していると過信するに至っていたのではないかと推認される。

(4) なお、Xが試合に参加した時間については、Bが負傷したのは午後二時頃であり、第二セットが終了したのは午後二時五〇分頃であり、その間約五〇分の経過時間があること、Mの供述によれば第二セットはCがBを町立病院に向けて搬送した直後頃に開始されているところ、Bが負傷してから町立病院に搬送されるまでに三〇分程度を要するところ、Mが町立病院に架電した直後頃にはすでにCは町立病院に到着していたことが認められる(〔証拠省略〕)から、Xがプレーに参加していた時間は約二〇分間であったと推認するのが相当である〔証拠判断省略〕。

また、鹿児島県職員球技大会における九人制バレーボールのセット毎の所要時間の報告書(〔証拠省略〕)によれば、右所要時間は、平均一六・八分であり、最長二六分であったとされるが、一セット当りの所要時間は、各バレーボール試合の内容、状況に左右されると考えられるから、右認定を覆すに足りるものではない。

(二) 九人制バレーボールの運動量について

九人制バレーボールのRMR(エネルギー代謝率)は二・一とされ、右数値は、二セットないし三セットをプレーした場合の平均値とされ、通常歩行のRMRと同程度であるとされる。

しかしながら、この数値については、全作業(試合)時間のエネルギー代謝をみるもので、全試合時間を通じた平均的な運動強度を表すものであり、個々のプレーの瞬間ごとの運動強度を示すものではなく、証人Fの供述するように、スポーツの運動強度を示す指数としては必ずしも適切とはいえない面があり、現在では余り利用されていないことが認められる。そして、一時的な運動RMRについてみると、スパイクは一七・〇、オーバーハンドサーブは一七・七とされており、相当強度の運動であると認められる。

(三) 再現試合の状況

平成六年五月二二日、被験者であるO(当時四〇歳)及びP(当時四〇歳)をXに見立て、本件バレーボール試合の状況を可能な限り再現し、約二〇分間、バレーボールを行い、その前後で脈拍や血圧を測定したところ、Oにおいては、バレーボール前に脈拍が八八、血圧が最低六〇、最高一一二であったのが、バレーボール後には脈拍が一五三、血圧が最低七二、最高一四〇と、急激な上昇がみられた。Pにおいても、バレーボール前に脈拍が八五、血圧が最低六〇、最高一〇〇であったのが、バレーボール後には脈拍が一三〇、血圧が最低七〇、最高一五八と、右同様急激な上昇がみられた。

(四) そうすると、前記認定のとおり、教育委員会チームは、NやMというバレーボール熟達者が出場しており、対戦相手も教育委員会チームに匹敵する実力を有し、白熱した好試合が展開されており、X自身、もともとスポーツが得意であったこともあり、知らず知らずのうちに、約二〇分間にわたって、ブロックやスパイクを打つなどして活発に運動し、プレーに熱中していたものと認められることからすれば、本件バレーボール試合の運動強度を過小評価するのは相当でないと考えられる。

二  争点に対する判断

1  地公災法三一条、四二条に定める職員が「公務上死亡」した場合とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、右負傷又は疾病と公務との間には相当因果関係のあることが必要であり、かつ、これをもって足りるというべきであるが、必ずしも死亡が公務遂行を唯一の原因ないし相対的に有力な原因とする必要はなく、本件のように、基礎疾患を有する公務員がこれを増悪させて死亡した場合には、公務の遂行に伴う高度の精神的・肉体的負荷により、病変である基礎疾患を医学的経験則上の自然的経過を超えて急激に増悪させ死亡の時期を早めたと認められる場合には、右死亡は「公務上の死亡」に当たると解するのが相当である。

2  そこで、右の観点から、前記第二、二の争いのない事実等及び前記一の認定事実を前提に、本件災害が「公務上死亡」した場合に当たるか否か判断する。

(一)  前記認定のとおり、Xは、陳旧性心筋梗塞の基礎疾患を有しており、昭和五九年六月の時点の症状と昭和六一年八月の時点の症状を比較すれば、再構築が起こり、駆出率が低下するなど心機能は悪化している状態にあり、D・H両医師とも、Xが通常の日常生活を送る過程においても、心筋梗塞が起こるなどして突然死することはあり得たとするところであり、Xの心疾患が重篤であったことは否定できないところである。

しかしながら、前記一3(三)で認定したとおり、昭和五九年六月に南九州病院を退院して以後、Xには狭心症、心不全あるいは心筋梗塞の再発はみられず、昭和六一年八月の中央病院での心臓カテーテル検査以後、大学病院及び町立病院のいずれの診療録にも、Xの心疾患が増悪したことを示す旨の記載はみられず、町立病院では、あらためてカテーテル検査等の必要性を認めることもなく、投薬治療による経過観察を続けていた。また、D医師においては、昭和六二年六月八日の段階で日常生活や日常勤務をすることは許容し得る旨の判断をしており、また、町立病院の医師においても同様の判断であったと考えられる。前記一1及び2で認定したとおり、本件災害に至る前の勤務状況や生活状況をみても、災害前半年間、病欠もなく、順調に公務を遂行していたことが窺われ、また、例年四月から五月にかけて教育委員会の事務量が増嵩するのに加え、平成二年三月末以降大浦小学校の休校に伴う事務などが重なったにもかかわらず、特に体調の不調を訴えるなどしたこともないのであり、日常公務及び日常生活においても心機能の変調、心筋梗塞ないし不整脈の予兆を窺わせるような事情は本件災害に至るまで全く存しない。さらには、冠状動脈バイパス術後の一〇年生存率は、最も高い数値であれば八九・四%であり、最も低い数値をとっても駆出率四〇%以下の患者の六六%であり、Xのように努めて節制した日常生活を送っていたような場合には、統計上、相当長期間にわたり、生存し得た可能性も否定できないところである。

したがって、Xの心疾患は重篤であって突然死する可能性は、全く否定することはできないものの、前記のとおり、公務復帰後から本件災害までの約五年八か月の通院・診療状況、公務遂行及び生活状況等のいずれをとってみても、本件災害時において、Xの心疾患が自然的経過により極度に増悪しており、突然死に至るような兆候を見出すことはできない。

(二)  本件バレーボール大会(試合)の状況は、前記一4認定のとおりであるところ、Xは、同バレーボール大会の選手として出場する予定ではなかったのに、Bの負傷退場という突発的出来事が起こり、急遽、Xが出場するほかない状況であったため、責任感の強い同人は、自ら出場を申し出たものである。Xの出場した試合は優勝候補と目されるチームどおしの対戦で白熱した接戦であったというのであり、一般人であっても、相当程度の精神的緊張感と、肉体的負荷を伴うものであったと認められる。

ましてや、重篤な心疾患を有するXにとって、本件バレーボール試合に出場することは、文字通り、致命的結果をもたらしかねないものであったが、Xの指揮監督権者であるA教育長は、Xが心臓バイパス手術を受け、継続的に心臓病の薬剤を服用しており、日頃から節制した生活を心がけていることを知っていたから、右出場がXの生命身体に危険をもたらしかねないことを予見しておりながら、同人に「大丈夫か」と声をかけるだけで、制止することをせず、本件バレーボール試合への出場を命じたものである。

その結果、Xにとって、本件バレーボール試合への出場という公務に内在する危険が発現し、心疾患の急激な増悪により、死亡するに至ったと認めるべきものである。

(三)  前記(一)及び(二)で検討したところによれば、Xは、重篤な陳旧性心筋梗塞という既往症を有していたものの、直ちに死亡に至るまでの可能性があったとはいえず、むしろ、本件バレーボール試合に出場したことにより、自然の経過を超えて、基礎疾患である心疾患を急激に増悪させ、その結果死亡するに至ったものと認めるのが相当であり、本件バレーボール試合への参加は肉体的・精神的に過重な負荷であったということができるから、本件死亡と公務との間には相当因果関係があるというべきである。

したがって、Xの死亡は、地公災法三一条、四二条に定める「公務上死亡」した場合に当たるものであり、これを公務外と認定した本件処分は違法である。

第四 以上のとおりであるから、原告の請求は理由があるから、これを認容することとする。

(裁判長裁判官 吉田肇 裁判官 鈴木順子 澤田忠之)

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